聖と狂: 聖人・真人・狂者 (シリーズ・キーワードで読む中国古典) 法政大学出版局
本書「聖と狂: 聖人・真人・狂者」は、聖人をはじめ、中国で理想とされる人物像から同国に現在まで息づく思想の在り方を探る一冊だ。
読みどころ1 天を人間は代弁できるか
中国思想の根幹にある絶対的な存在が「天」。
天とは、しかし天はもの言わず、意思を自ら示さない。ある意味事後的に、天の定めとして知られる所のものとなるもの、つまり決定論である。
物言わぬ天に代わり、意思を代弁する者がある。それが聖人である。
天の代弁者たる聖人は、天が司っている自然法則を発見し、火を使い、道具を作る。卓越した行動力を持ち、人を率い、国を作る。
聖人は預言者・宗教者であり、為政者であり、また科学者であり思想家だ。
王朝の交代は王が天から見放され、新たな聖人が世をつかさどるにふさわしい者として登場したのだと正史が編まれることになる。
しかし当然ながら、聖人も生身の人間である。神話時代ならいざ知らず、時代を経るごとに実在の人間に聖人の称号を与えるのが困難になってくる。
優れた王であれば格別、生々しい歴史の中で誰もが認められるような人が少なくなってくる。
また政治的には王ではなかったが優れた思想家であった孔子は聖人なのだろうか、といった問題も発生したりする。
本書は、そんな「聖人」概念について、儒家、墨家、道家、朱子学や陽明学が、どのように捉えていたのか、文献をもとに捉える。道家・道教が理想とする「真人」についても解説。漢字の起こり、俗世を離れる仙人の理想、秦の始皇帝の「不老不死」への希求などをからめて探究している。
読みどころ2 狂者は世界を変革する?
聖人は真理にアクセスし、森羅万象を知ることができる人間なのであるから、知識人であるのは当然だ。しかし学ぶことで聖に達することができるものではない。
本で学べば学ぶほど真理からは遠のく感覚もまた、ある。
子どものような心で事物に向き合うことこそが真であるのかもしれない。そのような反知性的?な文化は世界各地にあるけれども、中国でもまた聖と知性の関連はつねに揺らぐ。
そこで見え隠れするのが、天衣無縫な振る舞いで価値を紊乱、変革のきっかけを与える「狂者」の存在だ。
本書では、狂者を軽視する立場、聖に近づく存在とする立場、両極がつながるように表裏一体であるとの考えなど、聖と狂の思想の変遷を解説している。
狂を重視する仏教(禅)の影響、『狂人日記』の魯迅など、近現代までの思想の系譜を分析している。
現代中国政治に影響を与え続けているともいえ、示唆を与えられる部分は多い。西洋キリスト教的な政教分離、米国のプロテスタントに顕著な宗教的イノセンティズム、イスラームとの比較で考えてみても面白いのではないだろうか。